サントリーのグレフル・ピングレのテレビCMの第一弾が業界内外で注目を集めた。現在、第三弾がオンエアされている本CMはご案内の通り、深津絵里扮する 妻と夫の会話が全て四文字に短縮されているというもの。商品名もそれぞれ「グレープフルーツ」「ピンクグレープフルーツ」の短縮形になっているうえ、ご丁 寧に CMの最後のスポンサー名のナレーションも「サントリ」に短縮されているという念の入れようだ。雑誌「広告批評」(02.05)でも「『キムタク』『マツ キヨ』から『アケオメ』『デパチカ』と、言葉の省略(力?)はすでに一部で日常化しているが」と書いている通り、言葉の短縮は世の習いだが、このサント リーのCMの世界すらまともに思える現実の世界がすぐそこに迫っているとしたらどうだろう。
先日、あるスポーツ番組のインタビューでサンフランシスコジャイアンツの新庄選手がいきなり「エーペラだから」と答えた。意味が分からず詰まったインタ ビュアーに彼は何と「英語ぺらぺらの意味」と笑って説明していたのだ。この事例を“宇宙人”とも称される新庄選手だからと片づけられない出来事を私自身、 最近経験している。
いずれも東急田園都市線車内の会話で、一つ目の事例は、中学生らしき二人の会話。一人が「ジョブ?」と尋ねたのだが、相手が首を傾げると「大丈夫?」と言 い直した。つまり「大丈夫」の短縮形らしき「ジョブ」という言葉は二人の間の共通語ではなかったということだ。二つ目の事例は、30代らしきサラリーマン とその同僚と思われるOLの会話である。デジカメプリントの話題で男性が「フジシャ」という言葉を口にした。やはり首を傾げた女性に「富士フィルム」と男 性は言い直したのだが、これも共通語でない短縮形を使ったという意味では先の出来事と同じである。実は「フジシャ=富士写」という“富士写真フィルム”の 短縮語は新聞の証券欄ではよく見かけるのだが、それを日常会話で用いる意識は奇異であろう。
この二つの事例が示す状況は、既にサントリーのグレフル・ピングレのテレビCMを超えている。なぜなら、サントリーCM中の妻と夫の会話において、少なく とも全ての短縮語は二人の共通語として成立しており、二人のコミュニケーションは取れているわけだが、私が経験した出来事および新庄選手の“エーペラ”発 言は、相手との共通語として機能しない短縮語を会話でいきなり使用するという暴挙を犯しているのである。
新庄選手の“エーペラ”発言を含めた3つの事例は、短縮語という一つのトレンドが、将来、コミュニケーションを前提とする会話を破壊するという危惧を私に 抱かせる。仮にそれが大袈裟な妄想だとしても、「じゃないですか」の語尾を用いた会話のように、相手の意志を確認することなく会話を進めるコミュニケー ション文化の一つの流れに位置する現象であることは確かだ。
私はこうした事態をはっきりと、コミュニケーションという人間が持つ基本的な機能の衰退として位置づける。少なくともこれら最近の会話のトレンドは“相手 の気持ちの動きを読みながら言葉選びをする”という会話の醍醐味、あるいは難しさの放棄につながっていることは確かなのだ。それは、相手の気持ちを汲み取 るという心の働き、つまり思いやりの衰退をも意味する。
もちろん、先の3事例はいずれもその後で言った本人が言い直してはいるのだが、私には、互いが(相手の知らない)好き勝手な短縮語を言い交わす会話の風景 が絵空事とは思えない。「相手のことはどうでもいい」という気持ちから発した様々な会話や行為が、私には絶えられないほど身の回りで多くなっているからで ある。
※お決まりの“広告表現”の視点から語られるのではなく、広告を素材に社会現象に視野を広げたこのような「広告批評」があってしかるべきである。広告ほど社会的な存在はないのであるから。
(2002年8月27日)