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イメージへの過信

マンスリー広告批評〈02.1月〉

まず、この「マンスリー広告批評」が半年間の長きに渡って更新されなかった事実に対して執筆者としてお詫び いたします。また、本年度からは肩肘張らず(こんな弱小Webサイトの単なる一セクションであっても、それなりの内容を求めてきたのですが)、取るに足ら ないメモ的な内容になったとしても、まず“マンスリー”での更新を前提として、できる限り正直に書いていこうと思います。それでは2002年の第一回を始 めさせて頂きます。

 PARCOの「NO MORE IMAGE!」なる広告への評価が、また業界誌に限ってすこぶるいい。制作者が一流なのだから、当然(業界誌の不文律として基本的に批判しない)なのだ が、視点があまりに皮相的なので本当に失望している。この「マンスリー広告批評」で繰り返し述べている通り、広告なんてケチをつけようと思えばいかなる広 告でもケチをつけられる。だから私はこの欄を“好き嫌い”のレベルでは批評しないと、これも繰り返し述べてきた。あるいは「分からない」という基準で広告 を評価することもまた危険である。「分からない」という判断は多分に独りよがりに傾くし、一方で「分からない」を前提とした広告が成立する以上、無意味極 まりない。だから、以降の内容は、そうした意図でないことはもちろん、決して批判を前提とした必要以上にアイロニカルな意識で書くものではないことを初め に(またしても)銘記しておきたい。
 さて、「NO MORE IMAGE!」である。このメッセージには矛盾がある。このように明らかな矛盾に対し、業界紙誌が何の批評も与えなくていいのだろうか。広告ジャーナリズ ムの不在に関しては、本欄「広告批評の限界について」でも述べたが、私には理解できない。そして、その矛盾の根底には“イメージ”に対するPARCO及び 制作者の過信があるように思えるのである。

「これはイメージ広告である」という批評の浅はかさ。


 「パルコも『NO MORE IMAGE!』宣言が、イメージであることを知っている。そうでなければ、なぜ、こうまで鮮やかな配色、強い《カッコイイ》書体を必要とするか。」これは 「広告批評」(02.01)に掲載されたPARCOの「NO MORE IMAGE!」の広告に対する文章からの抜粋である。恥しい。本広告が“脱イメージ宣言”という意匠を借りた“新イメージ宣言”であることは何もこうまで 堂々と書かれなくても分かる。例えば、私は昨年末に行われた当社面接での課題に、本広告に対する批評を書いてもらったが、殆どの応募者が同じ点を指摘して いた。最近流行りのブランディングなる言葉を待つまでもなく、広告の目的から自社ブランドの良好なイメージ作りを排することの方が難しい。イメージ広告云 々の論議が不毛なのは、そうした広告の存在理由から見ても当然のことである。私が言いたいのは、そんな浅い部分での“イメージ”論議ではない。

“イメージ”とは何か?

 手元にある英和辞典で「IMAGE」を引いてみると、像・画像という基本的な意味に加え、心象・一般概念、あるいは幻想などという意味も見られる。「イ メージ」というそのままの表記もあり、広告の場合は結局これが一番しっくりきたりする。「心象」とは、見たことや聞いたことを、ある一定の形で心の中に宿 すことであり、この言葉も広告で言うところの“イメージ”に近いと言えるかもしれない。「NO MORE IMAGE!」の広告は、誰がどんな内容でPARCOを心の中に宿していると考えて作られたのか?  実はそこが問題の核心である。
 私は「NO MORE IMAGE!」の広告には矛盾があると述べた。それを明らかにするうえで、本広告における“イメージ”の在処を探っていきたい。私は本広告の指す“イメー ジ”なるものの定義が次の5つに分かれ統一されていない(意識されていない)と考える。
 (1)PARCOが主として70年代〜80年代にかけて露出してきた数々の広告により発信されたイメージ(2)(1)により一般消費者に醸成されたイ メージ(3)ここ数年の広告により発信されたPARCOのイメージ(4)(3)により一般消費者に醸成されたイメージ(5)現在の一般消費者が(広告では なく)現実のPARCOに対して宿しているイメージ(6)(一般的な意味で)広告として訴えるイメージ。  以上である。
 前述の「広告批評」でパルコの宣伝部長は「70年代から80年代にかけて石岡瑛子さんたちが引っ張ってくれたパルコのイメージ、“思想”的な部分も含め た企業キャンペーンは、当時は大変有効でしたが、これだけ時間がたつと、消費者の意識もずいぶん変わってきている。」と、本広告作成の動機を述べている。 この文面からは(1)のイメージを念頭に置いていることが分かる。そして「消費者の意識」=(5)との乖離を自ら認めている。しかし、ここで同部長の述べ ている“消費者の意識”とは“思想的な部分も含めたメッセージを求めず、より現実的な情報を求めるようになった意識”を指していると思われる 。
 同部長はこれに続けて「イメージより、具体的な訴求メリットと言いますか、ポイントアップで買えば買うほどメリットが上がったり、カード会員になれば特 典が増えたりということに敏感になっている。漠然としたイメージだけでは、そういう消費者の心はつかめないというのが、実感としてまずありました。」と消 費者の意識の変化を説明する。この場合の“イメージ”は両方とも(6)である。
 ただ、続けてユニクロとの対比で同部長はこうも述べている。「うちには、たくさんのリアルなコンテンツがある。劇場や映画館、レストランも含めた、ハー ドとソフトの装置が現実に評価されてイメージを作ってきた。だったら、それをもう一度、知らない人たちにきちんと伝えていこう。」ここで述べられている“ イメージ”は広告を念頭に置いていない。つまり(5)である。
続けて同部長は“イメージ”をこんな文脈で用いている。「表面だけきれいなイメージを作るのではなく、そういうリアルな仕かけを、パルコももっと訴えてい くべきだし、もう一方ではイメージを作って来たパルコがイメージを否定したことで、何か感じてくれる世代もいるだろう。この両面の狙いがありました。」こ の文章中、最初の「イメージ」は(6)であり、次は(1)(3)である。
 一連の説明の中で同部長は巧みに“イメージ”の意味を使い分けているのだが、このように“イメージ”について語る時、どうしても避けられない意味の多様 化を「NO MORE IMAGE!」の広告も同様に避けられない。それは、情報の受け手である一般消費者が本広告における「IMAGE」が(1)〜(6)のどの“イメージ”を 意図しているのか分からないという状況を生みだしていく。また、ここでは(2)(4)つまり、一般消費者に醸成されているイメージについて言及されていな いが、結局はその点(消費者の意識を考慮していない)も本広告の矛盾を生み出す原因となっている。本広告の送り手側の混乱が、受け手側の混乱を生み出すと いう図式について、次の制作者側の考え方を分析した後で説明したい。
 ブレーン(12月号)で「NO MORE IMAGE!」を制作した佐藤可士和氏が次のように述べている。「“イメージ”で売ってきたパルコが、いちど“イメージ”という言葉を捨ててみる。ばくぜ んとフンイキのよい場所から、具体的な“約束”のある店へ。これからは、リアルで行く。“NO MORE IMAGE!”パルコの脱イメージ宣言キャンペーンです」。
 ここで使われている“イメージ”は極めて曖昧だ。ここには広告に類した言葉が登場していないため、例えば「“イメージ”で売ってきたパルコ」という表現 も、文脈からは(1)(3)をトータルした“これまでのPARCOが発信してきた広告によるイメージ”を指していると解釈できるが、言うまでもなく“イ メージを売る”という表現には店舗設計とか品揃え、スタッフの応対等も当然含まれるわけだから、本来ここには“◯◯によるイメージ”つまりイメージの出所 が示されねばならない。ただそれでは「いちど“イメージ”という言葉を捨ててみる。」という表現が成立しない(スタッフの応対を捨ててみるという考えは成 立しない)し、その後の内容は広告のことについて述べているのは明らかなので、やはりここでの“イメージ”は(1)(3)をトータルした“これまでの PARCOが発信してきた広告によるイメージ”と判断するしかない。「ばくぜんとフンイキのよい場所」という“イメージ”を発信してきたこれまでの広告を 「具体的な“約束”」を発信する広告へと変えていく狙いについてのみ言っていると。しかしそう考えてもこの佐藤氏の言い方は不完全である。なぜなら PARCO宣伝部長が「うちには、たくさんのリアルなコンテンツがある。劇場や映画館、レストランも含めた、ハードとソフトの装置が現実に評価されてイ メージを作ってきた。」と語っているように、“イメージ”とは別に広告を通さずとも発信され、作られるものだからである。

  「IMAGE」に関する2つの矛盾。

 さて、以上の「NO MORE IMAGE!」広告に対するスポンサー及び制作者側の考え方を踏まえ、それらの矛盾について2つの観点から改めて指摘していきたい。私は、最初に「NO MORE IMAGE!」という広告を目にした時、「IMAGE」を(1)(3)(6)として捉えた。つまり広告コンセプトとして、これまでのPARCOの路線を変 える意志表明だと。つまり、前述の佐藤氏の考え方を理解したのであるが、それはあくまでコピーライターとしての視点で、である。一方で私は、こんなメッ セージが一般消費者に果たして正確に伝わるのだろうかと同時に思った。それは私自身の中にも概念の混乱が生じたからである。
「IMAGE」を“PARCOの広告によるイメージ”と捉えた場合の矛盾。
 本欄で説明してきた通り、本広告の意図は、これまで(企業メッセージも含めた)広告で発信し作ってきたPARCOの“イメージ”を捨て、単に“イメージ ”だけを発信するのではなく「劇場や映画館、レストランも含めた、ハードとソフトの装置を通したリアルな約束」を発信していくという宣言にある。しかし、 多くの消費者はPARCOが「IMAGE」と言った場合に、“これまでPARCOが広告で発信してきたイメージ”とは思わない。そもそも一般消費者に“イ メージ広告”などという認識があるとは常識的に考えられないし、さらに言うなら、前述の分析でいう(1)PARCOが主として70年代〜80年代にかけて 発表してきた数々の広告により発信された“イメージ”など、なおさら想起しない。もちろん、私も通っていた広告批評や宣伝会議等の“コピーの学校”の中で は「裸を見るな。裸になれ。」(75年)というキャッチフレーズを知っている者の割合はある程度の高さになるのかもしれない。しかし一般消費者の記憶にど こまで残されているのか真剣に検証したのだろうか。 私の経験では、30歳を少し越えた(つまり1980年の時点で10歳前後)世代のごくごく一般的な情報感度を持った(例えばCMに登場してくるマイナーな タレントも瞬時に認知する程度の)人間でさえ、PARCOが発信してきた70年代〜80年代にかけての広告を話題に会話することは不可能に近い。もちろ ん、これは単なる私的な聞き取り調査であることは言うまでもないが、PARCOに対するあまりにも冷めた周囲の人間達の態度から判断してそれほど大きくは 違っていないのではないかと思う。しかも、この世代は明らかにPARCOのターゲットに入るのではないのか。そして(1)の70年代〜80年代の広告の記 憶が希薄であるとすれば、一般消費者が「PARCOの広告はこれまでずっとイメージを発信してきた」と認識している可能性はさらに低くなる。なぜなら、最 近のPARCOの広告に対する印象が弱くなっている(そもそも広告という情報装置自体の位置が弱くなっている)ことは明らかだからである。
「IMAGE」を“PARCOのリアルな装置が作ってきたイメージ”と捉えた場合の矛盾。
  しかしPARCO「NO MORE  IMAGE!」広告の矛盾はそれだけではない。また、だからこそ本広告の矛盾の傷口は深い。本広告に対するスポンサー及び制作者側の考え方の分析から、本 広告に限って“イメージ”は“広告により発信されてきたイメージ”を意図していた可能性が高いわけだが、PARCO宣伝部長自ら述べている通り、劇場や映 画館、レストランも含めたハードとソフトの装置、つまりリアルなコンテンツが現実に評価されてイメージを作ってきたこともまた事実なのである。だからこ そ、「NO MORE IMAGE!」とメッセージされた時、一般消費者はその「IMAGE」が“日頃、現実のPARCOと接している自分自身の内に宿しているPARCOのイ メージ”と捉える可能性も高いのである。それはむしろ“広告により発信されてきたPARCOのイメージ”と捉える確率より高いと私は考える。
 さて、私はこのPARCOの広告について書くに当たって、周囲の30名近くの人物に「PARCOのイメージとは何か」と訊いて回った。そのイメージの大 半は「いつ行っても空いている場所」「いいのか、悪いのかわからない」に代表される。もちろんPARCO劇場での文化活動等は評価されているし、それはそ れで立派に“いいPARCOのイメージ”には違いない。しかし、PARCOは何も渋谷や池袋だけではない。地方のPARCOの惨憺たる状況を見れば、この “イメージ”に対する評価はさらに低下するはずである。私の知る厚木PARCO(小田急線「本厚木」駅)の状況が正にそれである。フロアによっては、休日 でも客の姿を見つけるのが難しいその貧しい集客力は、当然PARCOに対して人々の宿しているイメージに比例する。つまり少なくとも厚木PARCO周辺の 人々は決してこの場所を「ばくぜんとフンイキのよい場所」とは認識していないはずなのである。だから例えば厚木PARCOのある神奈川県西部の住人におけ るPARCOのイメージは、極端に低いことが推測できる。池袋店こそ、それなりの盛況を見せてはいるが、渋谷店ですらとても混雑しているとは言えない(こ の辺りの現実が、特に情報感度の高い層にとって「いつ行っても空いている場所」という“イメージ”に結びついている)。ちなみに、渋谷エリアのお店情報を メールで集めた某サイトでは、PARCO関連の情報は見事にゼロであった。新聞広告では社長が登場してきて「NO MORE IMAGE!」宣言するほどだから、このような状況に対しPARCOもそれなりの危機感は感じてはいるのだろうが、その“イメージ”の捉え方が何とも悠長 な気がする。しかも曖昧である。
 自らのPARCOに対するイメージが低いか希薄な場合、「NO MORE IMAGE!」というメッセージを見て、人々はどう思うのだろうか。「PARCOは、マイナスのイメージを捨てます。」と言っているとでも解釈するのだろ うか? そこまでシビアでないにしても、恐らく素直に思考回路に入っていかないはずである。
 「IMAGE」を否定する広告を露出する場合、通常は(例えば雪印乳業のように)マイナスのイメージを是正していくためか、古いイメージを新しく変える ために行う。本広告は後者であることは間違いないが、これまで検証してきた通りPARCOの“広告によって発信されてきたイメージ”が極めて希薄であると するなら、人々が“PARCOのリアルな装置から受け取っているイメージ”を新しく変えることを目的とした広告としてしか成立し得ない。しかし、もしその “イメージ”が予想以上に低い、つまりマイナスのイメージであった場合、「NO MORE IMAGE!」の広告テイストは果たして目的にふさわしいのだろうか? こんなあっけらかんとしたメッセージの送り方が、「最近のPARCOってパッとしない」と思っている層に対して不遜な印象を与えることは確かではないかと 思う。前述の通り佐藤氏は「ばくぜんとフンイキのよい場所から」と述べているが、現実の売場(PARCOのリアルな装置)から伝わるイメージは違うのでは ないか? (広告業界でここまで有名で、広告の一つの歴史を作ってきた)PARCOの広告に対する過信が、ここにないか?
同じく「NO MORE IMAGE!」と題された新聞広告の社長メッセージの中に「バーゲンじゃない時にも買いたくなる、品揃えにします。」というフレーズがあるが、もし PARCOがこのメッセージを本当に認めているとしたら、現状のPARCOの売場は「フンイキのよい場所ではない」と自己申告しているようなものではない か(しかし、私はこうしたフレーズはPARCOに入っているテナントに対して大変失礼であると思うが)。
 私が指摘したいもう一つの矛盾とは、このように“PARCOのリアルな装置が作ってきたイメージ”を正確に捉えていないことから生じる矛盾である。だか らこそ「何? この広告」と混乱するのではないかと思う。もしくは、意味不明で見過ごされてしまうかのどちらかだ。「それでもよい」と、言われてしまえばそれまでだ。 「ともかく、PARCOが何かを始めようとしているアクションとかマインドを伝えられればよい」と、広告業界でよく使われる言い回しで迫られたら仕方な い。しかし、もしそうであるなら「NO MORE IMAGE!」というキャッチフレーズは少なくとも違うのではないかと思う。
イメージへの過信
 私が本欄1月のタイトルを「イメージへの過信」としたのは、??で述べた二重の意味での矛盾からである。つまり、PARCOの「NO MORE IMAGE!」なる広告は、PARCOが70年代からの一連の広告で作りあげてきた“イメージ”が今もなお人々(ターゲット)の意識に確固として存在する という過信のうえか、劇場や映画館、レストランも含めたハードとソフトの装置(そこには当然店頭も含まれる)、つまりリアルなコンテンツから人々(ター ゲット)が受けている“イメージ”が良好だという過信のうえでしか成立し得ない。そして私はその2つの前提は成立しないと判断する。もちろん、一般消費者 の意識に対する考え方は、あくまで私の個人的な聞き取り調査と一消費者としての経験から導き出された仮説である(私の力不足を補う本格的な調査を、例えば 業界誌が実施してくれれば、私は自らの疑問を解決できたかもしれない)。しかし、業界誌のコメントを見る限り、私の仮説の可能性を正統なデータから否定し てくれるような見解は見られなかったし、イメージ調査にも、もちろん触れられていない。私が本広告に対して抱いた思いは以上の通りである。

  恐らくは本広告より遙かに少ない予算で広告制作をしている(しつこいと思わないでください。これも繰り返し述べています)私でさえ、スポンサーの皆様は言 葉の一つひとつに大変な神経を注がれている。「そんな細かなこと、気にしなくていいんじゃないのかなぁ」と私でさえ思うことがある。だから、私が本広告に 対して指摘した疑問は、決して揚げ足取りなんかではない。私が「IMAGE」という言葉を同じ状況で使用するならこう考えてから進めるという素直な思いで ある。だいたい、「NO MORE IMAGE!」なる英語の意味を正しく理解できる日本人の存在からして私など疑問を抱くのだが、これはさらに私見の域を出ない。
  本欄タイトル下写真の「NO WAR」は、私が鞄に付けているリボンのメッセージだが、こちらの方が遙かに分かりやすく、インパクトがあったりする。それこそ、70年代のPARCO だったら、こうした社会的なメッセージもできたかもしれない。時代は変わった。その時代をどう認識するのか。私はPARCOの方向性は間違っていないと思 う。ただ「NO MORE IMAGE!」という言葉には疑問を抱かずにいられない。
(2002年1月31日)

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