改めてまず申し上げておきたいのは、本広告批評では悪意のある文章を最も恐れ排除しているという点である。
正解のない広告の世界である。それこそケチをつけようとすれば、世の中の広告すべてに可能だと言ってよい。私が基準としているのは、あくまで同業者とし て、真摯にクライアントの方々と接してきたこれまでの経験に照らして、「それはしてはいけない」とか「それは配慮に欠けている」と感じたかどうかである。 広告、とりわけコピーの批評など、好き嫌いで言っていたらキリがないし、個人的な「分かる、分からない」のレベルで発言するのがナンセンスなのは当たり前 の話だ。私は“業界的”には、二流のコピーライターである。しかし、これまで接してきたクライアントの方々は、それぞれ厳しいビジネスの世界を生きてこら れ、広告に何より真剣に取り組み、広告に賭けておられる皆さまばかりである。その意味で、私が置かれている広告の世界は、バジェットこそ違え、一流と言わ れるコピーライターの方々と全く同位 置にあると言って差し支えないと思う。ましてや私が背負っているブランドは、この有限会社プレゼントという無名の4名の会社でしかないのである。 本題に入らせていただく。今回のテーマは「既成概念への配慮」だ。なぜ私が今回、前段で改めて本広告批評の立場について申し上げたかと言うと、この「既成 概念」こそ、いま最も判断が難しい位 置にあると思ったからだ。理屈をつければ、いかようにも攻められるし、いかようにも逃げられる。だからこそ、今回も私の批評の基準は“これまでの経験”に しかない。改めて言うが、悪意から発したものではない。 「ミーメディアへ」。iモードが独走している現状にあって、「i」に対抗できる言葉が「me」しかなかったという事情を察することは容易い。「マイメディ アへ」では、コピーとして至極、平凡になってしまう。「マインメディアへ」では語呂が悪い。だからこその「ミーメディアへ」だが、初めて見た瞬間、私は 「ミーイズム」という言葉がすぐ脳裏に浮かんだ。 「ミーイズム」。大辞泉によれば「自分の幸福や満足を求めるだけで他には関心を払わない考え方。自己中心主義」とある。そんな言葉は知らないという方に申 し上げるが、これは死語ではない。それどころか、昨今の少年犯罪の原因をミーイズムを通 して解釈する傾向が目立つように、これまでに増して目にする機会が多くなった言葉である。 一番の問題はこの「ミーイズム=自己中心主義」の「ミー」をこともあろうに、場所柄をわきまえない使い方が批判に晒されている「携帯電話」のキャッチフ レーズにしてしまったという点である。携帯電話は、“ジコチュー”の象徴として多くの人々の脳裏に刻まれているはずである。したがって「ミーメディア」な る言葉は、携帯電話の自己中心主義を助長する可能性を充分に秘めている。この結びつきは強引だろうか? もちろん「ミー」は100%「ミーイズム」につな がるものではない。しかし、だ。他でもない、「携帯電話」が主人公の広告である。少なくとも一般 人以上の情報収集能力を持ってしかるべき広告関係者が、「ミーイズム」と「ミーメディア」の関連性に気づかなかったとするなら、言葉に対して余りにも鈍感 だとしか言いようがない。 次に、仮に2つの言葉の関連性に気づいていたとするなら、最終的に関係者の判断で「ミーメディア」のキャッチフレーズとしての妥当性を認めたということに なる。ここから先は、攻めるのも、逃げるのも自由な「既成概念」の世界である。つまり既成概念としての「ミーメディア=自己中心主義」の一般 認知度を低く見れば、『「ミーイズム」と「ミーメディア」の関連性』をことさら意識する必要はない、ということになる。この種の領域までわざわざ調査する ことはまずないから、基本的にはスポンサーとコピーライターの皮膚感覚でしかない。(インターネットによる安価な調査がもっと普及していれば、調査してみ たい気はするが。) だからここからは、水かけ論の堂々巡りになってしまう。ただ、私がもし“このキャッチフレーズを提案したコピーライター”であったな ら、少なくとも提案する際に「ミーイズムとミーメディアの関連性」への懸念を述べる。そして、もちろん提案するからには、その危険性は低いと申し上げる。 あるいは、恐らくこのレベルの関連性があれば、スポンサーの側に「ミーメディア」という言葉の使用に対する抵抗があってしかるべきだと思う。したがって、 私の常識で想像すれば、本広告のスポンサーおよび広告関係者は、そうした検証を経て、やはり「i」に唯一対抗できる言葉として「me」を選んだということ になる。この辺りの経緯は、当事者以外知る由もない。 しかし、だ。某業界誌に掲載された本広告のCDの発言には唖然とした。「ミー」を喜怒哀楽の情に結びつけたのは極めて広告的で、私だって同様の創作を重ね てきた。ただ、『あなたにも「ミー」があります。だから、この広告の主人公はあなた自身。「ミーメディア」は、今、あなたの「ミー」を大きくひろげはじめ ました』には、正直、驚いたし、ご本人の言語感覚に明らかなる疑問を覚えた。「ミー」を「わらい、歌い、泣き、怒り」と結びつけた行為は私にも理解でき る。『車内で携帯電話に「わらい、歌い、泣き、怒り」している者こそ、自己中心主義のミーイズムの象徴である』などと、へ理屈を述べるつもりは毛頭ない。 しかし『あなたにも「ミー」があります』という言葉には、「ミーイズムとミーメディアの関連性」を検証した跡は何一つ感じられない。『「ミーメディア」 は、今、あなたの「ミー」を大きくひろげはじめました』に至っては、無責任としか言いようがない。もちろん、この文章は広告制作者の側のドキュメントに近 い性格のものであるから、少々の脱線あるいは熱意の迸りがあるのは仕方のないことだと思う。客観的な判断のために、そうした点も考慮した上で私が感じたの は、やはり本広告の制作者たちの言語感覚に対する疑問である。前述の通 り、正確な経緯は当事者しか分からないから、憶測で物を言うのは控えるが、「疑問」が生じたことは確かである。「ミー」なんて『あなたにも「ミー」があり ます』などと改めて言われるまでもなく、一人ひとりが日々戦っている最も強く抑えがたい感情であり、『大きくひろげはじめました』など、もってのほかだ。 最終的に「ミー」の使用をOKと判断した経緯に異論は唱えない。しかし、制作の過程で「ミーイズムとミーメディアの関連性」を少しでも考えたのなら、上記 の文章はとても書けないはずだ。“酔っている”以上に、“寒々しい”気持ちを、私は感じずにはいられなかった。
|