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自民党宮城県連のテレビCMへの異議申し立て

マンスリー広告批評〈01.2月〉

自民党宮城県連制作の党批判を込めたテレビCMが、古賀自民党幹事長の勧告により修正、オンエアされること になった。問題のCMは当初、受話器を持った主婦が「こんなのなら私が総理大臣やったほうがマシよ」と怒鳴る場面で終わっていたが、「こんなのなら私が」 の後に「ピー」という効果音を入れ、代わりにスーパーで「あなたならどんな表現をしますか」と問い掛ける表現に修正されたという。
実は宮城県連には、2000年6月に行われた衆院選挙で県内6選挙区の内の4つを民主党に奪われるという惨敗を喫した特殊事情があった。本CMは、これに 危機感を抱いた県連の広報戦略の一環であると喧伝されている。しかし、私には単純にそうは思えない。本CMの制作は9月に始まり、1月に撮影が行われたと 聞く。私はこの間の11月上旬から下旬にかけて起きた“加藤政局”がCMの制作意図に少なからず影響したと思っている。“森降ろし”の潮流が加速した自民 党の変化なくしてこの表現はなかったのではないか。もちろん、県連会長の三塚博議員(森派の前会長)はCM表現にまでは関与していないものと思われる。
私はこのCMが、広告業界にとって3つの点で大きな意味を持つと考える。1つ目は、政党CMが政治性を持って報道された初の出来事(揶揄をこめた特集は あったが)であったという皮肉、2つ目は、「広告」という表現行為がやはりある種の聖域として存在しているのだという確認、最後は、CMが“党利党略”に 使われた初めてのケースであったという疑惑である。
1点目は、自民党の凋落傾向という流れの中で“一県連が党批判のCMを制作した”という事実が、自民党の内部紛争というフィルターを通してマスコミに必要 以上に注目されたことによる。また、政党の支部が自らの党を事もあろうにテレビCMを通じて真っ向から批判するという前代未聞の珍事に対する驚きであろ う。CMの善し悪しでない所が“皮肉”なのである。しかし、「こんなのなら私が総理大臣やったほうがマシよ」なる台詞が含まれたCMを古賀幹事長が拒否す るのは立場上、当然である。メディアの論調の中には、党本部の横暴のような意見が見られるが、全く間違っている。宮城県連は「我々も宮城県有権者と同じ視 点を持っている」と主張したかったと言うが、それは広告表現上の論理でしかない。そもそも本CMは、あからさまな誤謬の上に成り立っているではないか。い かに県連と言えど森首相を長に戴いている事実に知らぬ顔をして、その長より一主婦の方がマシという論理が成り立つはずがない。
実はここでも広告業界は、内輪受け・楽屋落ちの脳天気ぶりを晒している。1月27日TBSテレビ「ブロードキャスター」に出演した雑誌「広告批評」編集長 の島森路子氏は「有権者の感覚に近い。有権者は自虐的かどうかは分かるセンスを持っている」と例によってお座なりの“現代人の情報感度”“表現に対する成 熟”を論拠とした批評を展開している。きっと彼女はその恥かしさに一生気づかないのだろう。街角インタビューで庶民が答えるような言葉をそのままCM化し たのだから「有権者の感覚に近い」のは当然ではないか。むしろ、このあまりにストレートな表現に対する「有権者の感覚に近い」という論評は当たり前の度が 過ぎた不消化以外の何物でもない。「森首相では選挙を戦えない」と考える自民党宮城県連というスポンサーがいて、広告代理店に「我々は、宮城県の有権者と 同じ考えを持っている」と伝えるテレビCMの制作を依頼する。スポンサーの意図に逆らうことは広告のタブー(「マンスリー広告批評」11月参照)である。 したがって、広告代理店のクリエイターがこのCMを制作したのは“広告の常識”上は正しい。そして、確かに本CMは森首相不信任を叫ぶ主婦の姿を通し、 「県連だって、県民と同じく現政権を信任しているわけではない」というメッセージを伝えているわけだから、スポンサーの意図は満たしていると言える。
ただし、本CMは間違いなく“自虐的”である。一体、自民党宮城県連はこのメッセージに次いで、どんな事実上のメリットを県民に届けるというのか。 前述の通り、いやしくも自民党の一組織として存在している以上、長に森首相を戴いているという事実を棚に上げて「我々は森首相に対して批判的な立場を取っ ている」と宣言するのは矛盾以外の何物でもない。自己批判のCMはよい。しかし、このCMは特定の人物に対する批判であり、しかもその人物を県連は公的に は信任しているのだから、これを“自虐的”でなく何と言うのか?(CM表現としてでなく)現実的に、このCMは成立し得ないのである。恐らく島森氏は“あ くまで広告表現上”という言葉を前置きしたいのだろうが、世の中の真っ当な神経からすれば、宮城県連はCMオンエア後、即刻、森退陣を県連の総意として党 本部に訴えるべきである。しかし、これについて指摘した人物は、(私の知る限り)当夜の番組に出演し「(テレビCMなどという形式ではなく)県連が正当に 主張すべき」と批判したエッセイストの玉村豊男氏のみであった。これこそ真っ当な批評と言うべきである。
こうした矛盾は、第2点目の「『広告』という表現行為がやはりある種の聖域として存在しているという確認」から生まれる。有権者である視聴者は、本CMを “広告だから”という理由で無意識に許している。また、“広告だから”という理由で「よく言ってくれた」と感じている。言ってみれば“広告だから”現実と 乖離していてよいのである。視聴者はラーメンのテレビCMに乗せられている具が、スーパーで買ったパッケージの中に存在しないことはとっくの昔から理解し ている。健康ドリンクを飲んだところで、通勤路をロケットみたいに飛べないことも100%理解している。「おい、飲んでもスーパーマンみたいに飛べない ぞ」なんて批判はしないのである。これが私の言う“聖域”だ。そして、これこそが“広告表現”なのである。森首相を公には認めている宮城県連が、その立場 を自ら否定するメッセージをテレビCMで発信した。この“自虐的”CMに対し「よく言ってくれた」と評価はすれ「現実には違うじゃないか」とは思わない。 現に県連に寄せられた反響は本CM支持への声が圧倒的であったという。その原因は“聖域としての広告”ばかりではない。日本人は政党に対する意識が希薄で ある。特定の党を支持している層は極めて少ない。県連の「公党である自民党の支部」としての立場と、「宮城県の利益代表」としての立場の違いを理解してい ないのである。だからこそ、このCMの矛盾に気づきもしない。その意味では日本人の政治意識の未成熟を端的に示した事件とも言える。
今回の一連の報道において全く取り上げられなかった本CMの矛盾こそ、広告批評の面から私が異議申し立てしたい点である。この点について意見すら述べな かっただけでなく、事もあろうに旧態依然とした“いかにも”の文化論のみをひけらかした島森路子氏に限りない失望を覚えた。意見の違いは結構だ。しかし意 見以前に言及すらできなかったのは、「広告批評」を代表する人物のコメントとしてあまりにも情けない。そして私はこのニュースを業界誌がなぜ取り上げない のかについても理解に苦しむ。広告は確かに文化の一つである。しかしそれは、業界誌お得意の「表現行為」や「ビジネス行為」だけでなく、「社会的行為」で もあるのである。
最後は、「CMが“党利党略”に使われた初めてのケースであったという疑惑」である。一体、宮城県連はテレビCMを何と思っているのか。今回のマスコミの 対応に、県連の土井幹事長は「これ以上ないくらいの成果」というコメントを発表している。それは何に対しての成果なのか。 もしそれが「放映料を含めて300万円」の予算を遙かに上回るGRPで「県民に対し県連をアピールできた」とするものなら、全くの思い違いである。仮に県 連に賞賛の声を寄せている有権者でさえ、次回の選挙で自民党候補者があからさまな党批判を展開しない限り投票はしないだろう。なぜならそれこそ本CMを制 作した県連の姿勢との矛盾だからである。少なくとも現在は、CMと県連の言い分は合致している。しかし、それを選挙で実践できる可能性は少ない。さらに言 えば本CMは、民主党に選挙戦における格好の批判材料を与えるであろう。宮城県の各候補者の主張と本CMの矛盾を突くのに、鳩山首相の(理念的色彩の濃 い)キャラクターは実によくマッチしている。
あるいはこの「成果」とは、マスコミを通じて自民党本部に党批判・森氏首相批判を十分にできたとする意味なのだろうか。これが私の言う“党利党略疑惑” だ。地方支部からの党本部批判は、以前とは比べ物にならないほどの明白さと厳しさを加えている。宮城県連という一支部が党の方針を批判するのは別に珍しい 事ではない。だとするなら、正に今回のCMは予想以上のダメージを党本部に与えたことになる。ただし、それが土井幹事長の狙いであったなら、氏は類い希な る戦略家であると同時に、正に地方政界の“裸の王様”に成り下がったと私は言いたい。実際には今後、県連自らにダメージを与えるCMとなるからである。
以上が私の考える、広告業界にとっての3つの大きな意味である。もう一度言う。意見の違いは結構だ。何もこれこそが正論と言うつもりもない。しかし今回の 一連の報道を見て、広告マスコミは言うに及ばず、日本の一般のマスコミの相も変わらぬステレオタイプな伝え方にまたしても失望した。テレビCMを通じた初 の政党内の争いを、単なる内部紛争としかとらえない独自性のなさは、最早、マスコミによる政治批判を諦めるしかないという思いを強くさせる。無論、毎日、 毎日、政治批判は繰り返されてはいる。しかし、マスコミには我々の前から「野中」という名も「青木」という名も「亀井」という名も消し去る力はない。政治 レベルの低さや、人間としての浅はかさ、そしてリーダーとしての節操のなさを、あれほど見事に伝えている彼らを追い込むことをしない。それどころか、彼ら を未だに“実力者”と崇めている。それは悲しいかな事実かもしれないが、それを前提として彼らを語るにはあまりに貧しい存在ではないか。
話が逸れたが言い忘れたことがある。宮城県連の今回のテレビCMは「我々は、有権者と同じく森首相に批判的な考えを持っている」というメッセージを伝える 目的を確かに果たしている。しかし、森首相を代えたからといって日本の政治が変わらないのは自明の事だ。その点で本CMのメッセージの質は極めて幼く、浅 い。もし島森氏の指摘するように本CMが「有権者の感覚に近い」とするなら「こんなのなら私が総理大臣やったほうがマシよ」と言いながら“オラが街の自民 党の先生”には投票する、日本人の政治意識の低さにあると私は言いたい。(2001.3.2)

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